ブッダ物語31
ウルヴェラー、ネーランジャ川のほとりアジャパーラー・ニグロータ樹のもと、シッダールタは静かに禅定にひたります。12歳で瞑想を始め、16歳でバラモン、サモンといった高僧達から教えを受け29歳で出家、その後苦行を重ね、実に23年にも及ぶ真理探究に明け暮れた人生でした。父上、ヤショダラ、ラーフラ、そして亡き母上、シャカ族の人々、宮廷での豪奢な生活、指導者としての責任、自分を慕う人々、…。実に多くのモノを捨てて、ついにここまでやってきてしまったのだ。ひとりボロをまとい、川辺の水音のみ耳に響く深夜、シッダールタはまもなく訪れるであろう“大悟の予感”とともに自らの人生を省みて、ふと微笑みました。
「人間とは実にこっけいなものだ。」
ブッダ物語32
しかし、その脳裏では人間存在の関係性の原理を、無意識にひとつひとつ説き明かし始めます。まず、この世に生まれた人間には身体がある。身体があれば物を食べずには生きていけず、生理機能として食欲がある。そして、眠らなければ身体を維持していけず、睡眠欲がある。さらに、子孫をつくらなければ人間は直ちに滅亡してしまうので、性欲がある。このように人間は、脈々と世代を重ね、生きながらえねばならぬ生き物である。そしてまた、人間は集まり社会をつくる生き物である。社会があれば、物を交換し商いを営むので、物欲が生まれる。そしてより多くの物と交換できる金があれば、金銭欲が生まれる。この5つをもって人間と社会が持つ五欲という。この物欲と金銭欲が国家単位、民族単位でぶつかりあうことを戦争という。では、この争いをなくすにはどうしたらいいか。
ブッダ物語33
それは、正しく人間の関係性を認識することである。“人間の関係性とは何か”父スットダナーから見れば私は息子、ラーフラから見れば私は父親、妻ヤショダラから見れば私は夫、祖父から見れば私は孫、曽祖父から見ればひ孫、シャカ族の人々から見れば私は皇太子、さらに世代を重ねて何億年と時を遡れば、そこにはすでに人間の姿はなく、サル、哺乳類といった動物から魚類、植物、さらに微生物へと生命の歩みは遡る。果ては生き物の姿を失い、人間は地球、銀河、そしてこの宇宙の発祥へと辿り着く。時間も空間もない世界。それはすなわち“無”。そう何もない状態。そう、この“無”こそ生命本来の姿ではないか。生きとし生けるものすべてのものには、もともとこのように実体はない。そして変化さえしていないのだ。
ブッダ物語34
シッダールタは丹念に人間とその機能、そしてそこから生まれる人間同士の関係、さらに民族、国家といった単位の争いに至るまでの経緯を追求しました。さらに動物、植物、微生物、果ては地球、銀河、この宇宙空間の発祥であるビッグバンに至るまでにその記憶を遡らせ、その意識は時空の始まる以前の無の状態に同化していました。そう、ここはもはや人間の五感では認知することも創造することもできない、無の世界。シッダールタはこの時、本来すべての生命は実体がなく、すべては無であることを悟りました。
ブッダ物語35
無と化したシッダールタは尚も更なる悟りの高みへと昇華します。生きとし生けるもの、いや、この宇宙そのものには本来実体はない。すべては無なのだ。しかしこの無は虚無ではない。それどころかこの無こそ、あらゆる現象の集まった姿、あらゆる現象がその関係性によって成り立つ状態、すなわち“無限”でもあるのだ。変化があるから無が存在し、無があるから変化が存在する。無限と無は同時に存在し、しかもそれはまったく同じひとつのものである。存在とはこの矛盾がひとつになって成り立っている。「何もないということが、すべてがあるということなのだ。」シッダールタはこの時、この存在が同時に持つ無限の側面を“縁起”、そして無の側面を“空”と名づけた。ここに、仏教の教えの根本である“縁起と空の教え”が誕生したのでした。
ブッダ物語36
人間は肉体を持ち、粗雑な変化の世界である物質界にいる時、瞑想によってこの存在の本質である無の側面と一体となることができる。しかし、肉体があるため再び生理機能により現象の世界へと引き戻され、食べ、眠り、交尾するという生殖活動へと引き戻される。そして自分と社会、社会と世界の関係におかれ、再び戦争や生老、病、死といった苦しみの世界を体験しなくてはならない。この際限のない苦しみから開放されるには、禅定によって五感から心を放ち、この無の境地に意識を固定させる、すなわち、解脱する以外に方法はない。太古から今に至る聖人達はこの存在のしくみを理解し、この世界に、この無と一体となるべく、瞑想の技術を伝えた。
ブッダ物語37
等しくすべての人がこの世に肉体を持ち生まれてくる目的とは、この無と一体となり、生まれも死にもせず、永遠に生き続ける“真我(仏)”を理解することである。この“悟り”のみが、全宇宙においてただひとつの絶対不変の真理なのだ。解脱し、三昧を楽しみつつ、更なる宇宙の高き法を学び、その精神を存在の本質である仏とひとつにすること、これが、人間が等しくこの物質界に生まれてくる目的である。この世界には本来、“瞑想の喜び”と“教えの喜び”のふたつしか存在し得ないのだ。
ブッダ物語38
この無の中には、この世のみならずあの世さえも含まれているのだ。そのため人々は欲得にまみれ、生きている時はおろか死して尚、くだらぬ六道輪廻の世界をぐるぐると徘徊しているにすぎない。本物の解脱とは、この世とあの世をはるかに超えた、この宇宙の頂上へと辿り着くことに違いない。悟りとは“無とはすなわち同時に無限でもある”ということを悟り、雑多な五感から得られる意識の憤りを静め、仏の心とひとつになることである。
ブッダ物語39
この時、シッダールタは宇宙が無であり、同時に無限でもあるという如来の悟りを得ることに成功しました。それは理屈でこの存在のしくみを理解するのではなく、チャクラを完全に開ききり、主観と客観を完全に一体とした“第3段階・神の悟り”と呼べるものでした。シッダールタは全創造世界を自己の内に取り込み、この世とあの世、そしてこの宇宙に平行し、存在するあらゆる世界を見渡す、まさに神の視点を得たのです。名実ともにブッダとなったシッダールタは、過去、現在、未来、あらゆる世界を見通す神の視点を得たのでした。
ブッダ物語40
宇宙はそれそのもので無の境地によって完結されており、本来始まりも終わりもなく、ただ存在しているだけにすぎない。つまり、宇宙にはもともと始まりも終わりもなく、永遠に存在の多様性において、無限のビッグバンが繰り返されるのみ。しかし、人々はくだらぬ理屈ばかりを言って悟りへと目を向けようともしない。それゆえ、私がこのおろかな人間界に教えを説いたとしても、何も解決されず、何もすることすらないといえるであろう。しかし、平行次元に存在する如来たちは、苦難の世界に身を置きながらも悟りを果たし、自らの生まれたった世界に教えを説き、あらゆる人々をこの無の境地へと導いた。それゆえ、汚辱の世界である現象世界によって、この静寂の極である無が生まれたともいえるのだ。私と同様、時空から抜け出て無限の三千億土を眺めた多くの如来たちが、神を生み出したともいえる。
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