いつ肉体を持っていたのか
わたしは今から約200万年前、まだこの地がリムリアと呼ばれる時代のはじめ、みなさんと同じ3次元の地球にひととき肉体を持って生活をしました。
そのころには南インドの沖にはリムリアと呼ばれる大きな大陸があり、現在のインドとは地続きで行き交いができました。 リムリア文明は現在のドラビィダ人と呼ばれる黒人が主体の文明で、この文明の特徴は政治や経済よりも神の価値の方が社会的に上だった点です。 つまり当時の王様や指導者たちというのは常に聖者の教えに沿った生き方をし、聖典を学び民を統治していました。 このリムリア文明の最後の足跡を残すインダス文明の遺蹟には中央集権の権力を現わす宮殿や城郭といったものなく、ただ巨大な寺院の跡と沐浴のためのプール、そして収穫物の保存庫しかありません。 つまりお寺と祭式の儀礼が文明の中心だったのです。
どんな生活をしていたのか
わたしは当時の王家バーンティア一族の血筋をひきます。この家系からは後のシバァとパールバディが輩出し、今も尊敬の絶えない偉大なる家系といえるでしょう。クラセカーラ王の治世、わたしは学士文芸院の院長をしていたのですが、ある時王宮での生活を辞し、求道者の生活へと入りました。そして現在の南インド、クッタララムという場所で長年、クンダリーニ・ヨーガ、さらにはバクティ・ヨーガをベースに聖典を紐解くという生活にあけくれました。 のちに完全なる神との合一を達成、そののち、わたしは徒歩でクッタララムより南へ20キロ、パーパナシュラムというところに庵をかまえ、しばらくそこで時を過ごすこととなります。
わたしには代表的な12人の弟子がいました。のちにババジという若者がわたしのもとを訪れ、クリアー・ヨーガを収めていきます。 わたしには妻にロバミトラというものもおり、こどももいました。 わたしはその一生にいくつか住まいを変え、北インドを旅行したこともあります
その際、ワディスバランコビル(現在のアガスティアの里)で病気にかかってしまいました。そのとき、わたしを懸命に看病してくれたのが、現在わたしの残したアガスティアの葉・原典を保管するシバァ家の人々で、そのときのお礼として今の時代このファミリーにわたしの遺産(アガスティアの葉)を管理するという祝福を与えています。
医学の神様・アガスティア
当時私は、北インド・ヒマラヤにあったアーユル・ヴェーダ(インド医学)に新たに鉱物学の分野を加え、より完成度の高いものとし、後の時代に残しました。私の残した葉の15章目には、現在あなたを悩ます慢性病の治療薬が書いております。しかし皆さんの時代には私の処方箋を忠実に再現できるドクターはいません。他に私はタミール語の文法を整理したり、天文学や物理学、生理学といった様々な分野についても研究し、その成果を残されています。このアーユル・ヴェーダ医学というものは、別名シッダ医学とも呼ばれ、簡単に言うと自己のシッダを開いた者、つまり解脱した人間にしか使いこなすことのできない神の叡智なのです。だから私の示すほとんどの薬はあなたの時代のドクターには、ちと荷が重すぎるでしょう。
あなたの人生の持つ素晴らしい可能性を教えている
しかしわたしの残した業績の中でやはりもっともみなさんに貢献しているものは、いうまでもなくアガスティアの葉でしょう。これを残すにあたりわたしは膨大な時間と多くの人たちの協力を得たことはいうまでもありません。
この葉は自然その人の持つ人生の最も素晴らしい可能性を口述するという特徴を持っています。そしてこの葉をベースに努力していけば必ず、病はいえ、仕事は発展し、良縁を得る。そんな性質をもっています。
理由は簡単、はじめにわたしはあなたの真我の中に住んでいるといいました。 つまりいいかえればこのアガスティアの葉とはあなた自身の言葉でもあるのです。
あなた自身の真我がこの葉をとおし、自らに語っているのです。
つまりこのアガスティアの葉をとうしあなたとあなたが対話しているにすぎません。
わたしはあらゆる人の心のもっとも深い部分に住み、あなた自身の持つもっとも素晴らしい人生の可能性を教えているのです。
つまりわたしとあなたはひとつなのです。えっ、わたしとひとつなんて気持ちが悪い…。
まあまあ、そんなつまらぬ意味合いは想像しないこと。
あなたの本当に姿が見えてくる
ですからこの葉の中で語られる人生というのは、いわば生まれる以前のあなたがみずから決めたこの人生における目標でもあるのです。仕事をとおして、結婚をとおして、はては苦しいが病気をとおしてこの人生で学ぶべき事柄を、この葉をとおして再確認しているのです。
それは各個人が意識をより高い次元へと昇らせていくために自ら選択したカリキュラムなのです。
そしてさらに大きな目標を持った人たちがこの葉をとると、特別室をとおして、社会指導者としての生き方、さらには霊性指導者としての道を再確認することとなります。
これらの人たちはみずからのためだけでなく、広く社会全体のために生きなくてはならない決意を持って生まれてきた人たちです。
現代社会には多くの問題が山積みしています。それらの問題を説き明かし、あたらしい人類の未来を見いだすためには、これらカンダムはとても役に立ちます。
裁いているつもりが実際は裁かれているという一面の怖さ
人を裁くことなかれ、自分が裁かれないために。
あなたの時代のもっとも偉大なる聖人のひとりが確かこんなことをいっていたはずです。この言葉に象徴されるようにわたしのアガスティアの葉もやはり強くこの性質を持っています。 つまり、素晴らしい素質を持った人がこの葉を読み自分の本当の人生を総覧すると、そこにある自らの可能性に驚きつつもこの葉の素晴らしさを理解します。そして「この葉はなんと素晴らしいものだ」と言い始めます。むろんそれはまさしくその人自身の持つ素晴らしさなのです。この葉を読むと不思議と自分の事を言い始めると当地(インド)でいわゆるゆえんはここにあります。
逆に一見、達観者、あるいはスピリチュアル・リーダーを気取った人間がこの葉をとったとします。しかしこういう人たちはそこに何かがかかれていても結局満足しません。 あるいは様々にこの葉を試し、たくさんの館で同じのがでるものかどうか試してみたり、あるいは架空の名前で葉を検索してみたりします。
神を試すことなかれ。この葉は善悪を越えて、常に本人を満たす言葉がでてきます。 もともと神を否定するために生まれてきた人たちすら満足させてしまうのです。
つまりその場合まんまと本人の猜疑心すら満足させる言葉と結果がでてます。そして本人は潜在的要求どおりこのアガスティアの葉をとおし神すら否定しはじめます。 インチキ、デタラメ、詐欺商法と…。 そしてこれがまさしくその本人のことなのです。
すでに数千年、いえ、数百万年という間生き続けるこのアガスティアの伝統は尋常な人には理解できません。
ましてこのアガスティアの葉を肯定し、社会に正しくその価値を広めることのできる人というのはそうざらにはいません。
神の交代劇
わたしアガスティアは肉体を離れたのち、リムリア人、つまりあなたの時代ドラビィダと呼ばれる人たちの民族神として紀元前の全インドに君臨していました。 その間この巨大な大地の上には多くの文明が起こっては消え、起こっては消えという歴史の流転を繰り返します。 やがてドラビィダ人最後のインダス文明が末期を迎えるころ、シベリア方面からアーリアと呼ばれる民族が怒濁のように押し寄せてきました。 彼らは馬と戦車を使い、あっという間に我がドラビィダ人を制服してしまったのです。 文明は荒廃し、我が文化も終焉を迎えるかに見えました。しかしその時、かつてのカイラス文明において勇者として君臨したシバァがふたたび地上に姿をあらわしたのです。 彼は風前のともしびとなったリムリア精神をもって逆にアーリア文明を征服しかえしたのです。なんと彼はそのスピリットをもって逆にアーリア民族を征服してしまったのです。
現在、物理的には全インドを制服したかに見えるアーリア人たちを、実は精神的に我がリムリアが支配しているのです。 こうしてこの聖者の文明はひとりのあらぶる神によりあなたの時代においても辛うじて命脈を保つことになりました。インドはやがてヒンドゥーと呼ばれ、世界でもっとも特異な独自の価値観と文明圏を形成していきます。そしてそれはそのままあなたの時代に生き続けるリムリア文明でもあるのです。
わたしはこの一事を目撃すると、その統治をシバァ、ならびにパールバディにまかせ、自らは妻をともない、かつての故郷、南インドへと向かいました。
そして現在、このインド南端を中心に多くのお寺に祭られ、さらにこのアガスティアの葉をとおし、神の道を求める人たち、人生に悩む人たちの道標としての役割をはたしているのです。
神とは何か
わたしは自らが何かをしるためにこの世界をつくりました。
わたしは普遍なるもの、はじまりであり、終わりであり、そのすべてであるもの。
そんな素晴らしいさを理解するためこの世界をつくりました。
この3次元世界には「悪」というものがあります。それは逆に自らの素晴らしさをしるための方便としてつくったものなのです。「悪」がなければ「善」という言葉に意味はうまれません。まあ、みなさんもたいへんとは思いますが、わたしの残したこの葉を励みに、そしてヒントにして、自らが最高のもの、「神」であるということを探求してみてください。ちょっと厳しい面があるかもしれません。しかし肉体の生活というのはそんなに長くないのですから……。
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